上杉鷹山、藩主自らが率先して節約した生活を行い、透明な会計を大事にした、現代でも通用するすばらしい手法です。
| 上杉鷹山:財政の再建
本サイトで取り上げる、「上杉鷹山」とは一体何者なんでしょう?
・アメリカ元大統領が尊敬する日本人政治家
・「なせばなる、なさねばならぬ、なにごとも」の名言を残した
・米沢藩の窮地を立て直した
・現代にも通じる政治手腕を発揮した
・今なお山形県米沢市民の心に深く息づいている
ざっと羅列すると以上のような江戸時代中期の米沢藩主です。
私も、米沢市のお隣に住んでいるので、上杉鷹山のことはそれなりに知っていましたが、ふとしたきっかけで深く知ることとなりました。
人間性の深さ、現代に通じるトップとしての姿勢に共感し、他のホームページでは断片的な情報しか手に入らず、きちんとまとまったサイトがないことから、このサイトを作成しました。
まだまだ手を加える部分が残っていますが、納得できるレベルに達しましたので公開します。
たまたまご覧いただいた皆様に対し、上杉鷹山という優れた大先輩が成し遂げた事を本サイトで少しでもお伝えできれば本望です。
| 上杉鷹山とは?
このブログ記事は、Movable Type 4のインストール完了時に、システムによって自動的に作成されたブログ記事です。 新しくなったMT4の管理画面で、早速ブログを更新してみましょう。
|
上杉鷹山は、自分から進んで倹約をしていました。
江戸での一年の生活費をそれまでの七分の一である209両ほどとして、
衣服や食事、本などをまかなったそうです。
上杉鷹山の米沢での生活費は、さらに少ないものだったようです。
また、日常の食事は一汁一菜、衣服は上等な絹ではなく綿で作られたものだけで、奥女中は50人から9人に減らしました。
上杉鷹山は、家臣たちに倹約を求めるだけでなく、自らが進んで質素なくらしを実践していた、元祖「ロハス」主義者だったのかもしれません。
| 上杉鷹山:財政の再建
明和8年(1771年)には、「御領地高並御続道一円御元払帳」という一年間の米沢藩の収入、支出、借金などを詳しく記載した帳簿が作られました。
このような帳簿は、米沢藩内ではじめて作られたと考えられています。
財政難を克服するため、財政の全体を明らかにして、役人たちに協力と理解を求めたもののようです。
その後も、このような帳簿が何度も作られているとのこと。
| 上杉鷹山:財政の再建
上杉鷹山は、寛政の改革でより多くの人々の意見を聞くことを大事にしています。
寛政3年(1791年)、追手門前、政治所脇に「上書箱」という意見を投げ入れるための箱が設置され、所属を明確にすれば、藩士だけでなく、百姓(農民)や町人も意見書を入れることができました。
毎月1日と15日に上書箱(目安箱)が開かれ、藩主が米沢にいるときは、本丸御殿の奉行詰の間で開くほど、ここに寄せられた意見は重要なものと考えられていました。
| 上杉鷹山:財政の再建
上杉鷹山は窮地に追い込まれていた米沢藩を3つの大きな改革を行うことで見事に建て直し、今も残る素晴らしい藩を作り上げました。
| 上杉鷹山の三大改革
上杉鷹山が藩主の時代には、苦しい財政に加え、あいつぐ天災により農作物がとれず、食糧不足による飢えで、尊い命が数多くなくなりました。この飢饉に対して人々を救うため、野草などを食料にする知恵をまとめたのが、「飯粮集」です。
| 上杉鷹山:飢餓を救った飯粮集
なんと、「飯粮集」には125種類もの植物が記載されています!
食感まで書かれているので、その当時の食生活を想像できるような文章もあるため、非常に興味深いです。
ただ、現存しているものは一冊で、何冊つくられ、どこに配布されたのか、どのような効果があったのかなどは分からず、まぼろしの「救荒書」といわれています。
| 上杉鷹山:飢餓を救った飯粮集
上杉鷹山が藩主となった頃、米沢藩15万石の財政は良いものではありませんでした。
というのも、江戸幕府が開かれた頃、「まだ戦が起こる可能性がある」とした上杉景勝(直江兼続)の考えで、通常よりもはるかに多くの家臣を養っていたからです。
その負担が上杉鷹山が藩主になった頃には著しく、早急な財政改革が必要でした。
この難関に対して、上杉鷹山は現代でも通じるような的確な方法で乗り切ったのです。
詳しくは、
上杉鷹山:財政の再建にてどうぞ!
| 上杉鷹山の三大改革
今でこそ、米沢藩のあった山形県米沢市は豊かな産業で潤っていますが、上杉鷹山が藩主となった頃には明確な特産品というのはなかったそうです。
他国との差別化が生き残る方法だ、と考えた上杉鷹山は、焼き物から木彫り彫刻、織物までさまざまな産業を特産品化したのでした。
詳しくは
上杉鷹山:産業の開発にてどうぞ!
| 上杉鷹山の三大改革
上杉鷹山が家督を譲るに当り、藩主の心得として伝授したものが『伝国の辞』です。
短い3文だけのものですが、上杉鷹山が考える藩主像が良く分かり、素晴らしい文です。
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候
詳細説明は下記に記します。
| 藩主の心得 伝国の辞
上杉鷹山は、「伝国の辞」「なせばなる」などの名言を残していますが、それ以外にもさまざまな名言、教えを残しています。
ここでは、他のカテゴリーに入らない、上杉鷹山の名言を集めてみます。
| 上杉鷹山が残した言葉たち
上杉鷹山の名言のひとつ
「なせば為る 成さねば為らぬ 何事も」
この言葉はあまりにも有名ですよね。
以前から、この言葉は知っていましたが、実は続きがあって、
「成らぬは人の なさぬなりけり」
で完結です。
この言葉の意味は、
【やろうと思えば何でもできます。できないのはやろうと思わないからです。
やろうとすることは他人のためではなく、自分のためになるのです。】
という深い意味合いが含まれています。
最近では、損得勘定だけで行動する方が多いですが、上杉鷹山の言葉をもう一度
じっくり考えたいところですね。
| 上杉鷹山とは?
上杉鷹山は、江戸時代中期に米沢藩主(現在:山形県米沢市)として活躍し、
その業績の素晴らしさから、今でも米沢市民に親しまれている素晴らしい藩主です。
逸話ですが、私の知人が米沢旅行をしている際、上杉鷹山の話をしていると・・・
「上杉鷹山公よ!ちゃんと公(こう)をつけなさいね!あなた」
と、見知らぬおばちゃんに怒られたそうです ^^;
上杉鷹山は、今でも米沢市民に親しまれ、敬われているという証拠ですね。
何がそこまで凄いのかは、このサイトをくまなく読んでいただければ分かるように作ってます。
先走って話してしまいますと、「ものの考え方」が一貫してぶれなかったことが
一番の要因だと個人的には思います。
戦国武将の勇猛さも魅力的ですが、上杉鷹山の政治家としての器の大きさも
十分惹かれますね。
| 上杉鷹山とは?
上杉鷹山は、米沢藩生まれではありません。
非常に有名な戦国武将「伊達政宗」は米沢生まれなんですけれど。
上杉鷹山は、寛延4年(1751年)7月20日に、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として、高鍋藩江戸屋敷で生まれたのです。
高鍋藩とは、今の宮崎県高鍋町周辺を治めていた藩で、上杉鷹山が生まれた頃は2万7千石の小藩でした。
今の宮崎県にある藩主の次男と、米沢藩。
一見なんの関連もないように思えますが、上杉鷹山の祖母が当時の米沢藩主である上杉重定と「従兄弟」の関係にあったのです。
そういったつながりが元で、上杉鷹山が9歳の時、祖母の推薦により、跡継ぎのいなかった米沢藩主、上杉重定の養子に内定したことが、高鍋藩主の次男が米沢藩主になった理由です。
| 上杉鷹山とは?
上杉鷹山は、「民の父母」となることを自分に言い聞かせ、藩政改革のに必要な場合には、例え重臣であっても処罰する、という厳しい態度で自分にも他人にも律してきました。
| 上杉鷹山:精神の改革
上杉鷹山は、米沢藩の強みを活かした特産品の開発に力を注ぎました。
単なる倹約一筋の藩主ではなく、領民の生活向上のために努力した人であることが分かりますね。
| 上杉鷹山:産業の開発
上杉鷹山は、かのジョン・F・ケネディ元アメリカ大統領や、ビル・クリントン元アメリカ大統領から、【最も尊敬する日本人政治家】と言われています。
なぜ上杉鷹山はそれほどまでに有名だったのでしょうか?
また、どうして徳川吉宗ではなかったのでしょうか?
その謎を解いていきます。
| アメリカ大統領が尊敬する理由
米沢藩の財政を安定させるためには、農業生産を増やし、安定させることが重要と考え、上杉鷹山は、農民だけでなく、藩士に対しても田畑の開発を促しました。
上杉鷹山は、安永2年から翌年にかけ、藩士たちに田畑の開墾や治水のための土手修理などを実施させたのです。
さらに、寛政4年には、藩士の次男・三男が農村に移り住み、田畑を開墾することをすすめたということです。かなり大胆な政策でしたね。
| 上杉鷹山:産業の開発
米沢藩の財政は、飢饉・凶作などが続きかなり苦しいものでした。
安永5年には、飢饉・凶作に備える蔵を各村に立て、毎年一人一升ずつの籾(もみ)を蓄えさせました。
何をさしおいても領民が生き延びる策をとっていたのですね。
| 上杉鷹山:産業の開発
江戸時代は、昔からのしきたりが数多く残されていましたが、上杉鷹山は大胆にもしきたりの一部を見直しました。
それは藩主として初めて米沢に入るときからはじまり、改革への意気込みを周囲に示したと言われています。
上杉鷹山が破ったしきたりは、「乗馬する位置」「祝いの席の料理」「普通は声を掛けない下級家臣にも声を掛ける」といったものでした。
| 上杉鷹山:精神の改革
上杉鷹山は、藩主となった明和4年に、米沢林泉寺境内にある、上杉家の祖新春日社に、「民の父母」の心構えを第一に、質素倹約を忘れない、など、藩主個人としての行動を誓ったのです。
さらに、翌年には置賜郡の守り神である白子神社に政治改革実行を誓ったのでした。
| 上杉鷹山:精神の改革
飯粮集はいまいち実態がつかめていないのですが、この「かてもの」は現在にも通じる、全国的に見ても類を見ないほどの救荒書として高評価を得ています。
「かてもの」の内容は、84種類の植物が記載されており、文体は統一整理されて分かり易く、しかもいろは順に並べるなど、よりわかりやすく、実践的な救荒書として作成されています。
また、版木が現存しており、1575冊出版されたことも判明しています。さらに配布先や天保の大飢饉での効果が史実であきらかになっています。
本当に素晴らしい食料辞典だったんですね。
| 上杉鷹山:飢餓を救った飯粮集
現代訳は、『一、国家は先祖から子孫に伝えるところの国家であって、自分で身勝手にしてはならないものです。』というものです。
国家は、今の藩主が作ったものではなく、代々の先祖から受け継がれてきたものだから、思い誤らないように、ということを説明してますね。
| 藩主の心得 伝国の辞
現代訳は、『人民は国家に属している人民であって、自分で勝手にしてはならないものです』という意味です。思い誤って領民は家来だと考えていた藩主がいたようですが、上杉鷹山は人民はあくまで「国家」に属している、というはっきりとした考え方をもっていました。
現代にも通じる政治家だということが良く分かるところです。
| 藩主の心得 伝国の辞
現代訳は、『国家と人民のために立てられている君主であって、君主のために立てられている国家や人民ではありません』というものです。
前の2つについて念を押しているものですね。
上杉鷹山は、あくまであなた(藩主)がいるのは国家と人民がいるからですからね、と説明しています。
現代でも、独裁政治が行われている国々があります。
宗教や民族がバラバラな国を国家としてまとめるには必要なのかもしれません。
ただ、上杉鷹山の考え方は広く世界に広めたいものだと、強く思っています。
| 藩主の心得 伝国の辞
受次ぎて国の司の身となれば忘るまじきは民の父母
上杉鷹山が、17歳で第9代米沢藩主となったときの決意を込めた言葉です。
現代訳は、『藩主としての自分の仕事は、父母が子を養うごとく、人民のために尽くすこと』という意味で、わずか17歳の若者がそこまで自分を律し、米沢藩のために尽くそうと考えたところに、上杉鷹山の非凡さが伺えますね。
| 上杉鷹山が残した言葉たち
一.天道を敬うことを教える事
一.父母への孝行を教える事
一.家内睦まじく親類親しむことを教える事
一.頼りなき者をいたわって渡世させる事
一.民の害を除き民の潤益をとり行う事
一.上に立ち百姓を取扱う諸役人の邪正に注意する事
一.往来の病人をいたわる事
郷村教導出役とは、上杉鷹山が『農民のための役人』という考えから、藩内12箇所に配置された役人のことです。
通常は、世襲制だったそうなのですが、「優秀な人間であることが必須」と考えた上杉鷹山は優秀な人間を選んだのです
その郷村教導出役に対し、与えた任務が前述の「7つの言葉」です。
上杉鷹山は、郷村教導出役に対し、しばしば状況確認を行っていたそうで、いかに領内の農民に対し愛情をもって接していたかが分かりますね。
| 上杉鷹山が残した言葉たち
アメリカのケネディ元大統領が「最も尊敬した日本人」は上杉鷹山と語ったことは非常に有名ですね。〈ケネディ大統領が日本人記者団の質問に答えたもの。質問した記者たちのほうが鷹山を知らず、閉口したというエピソードがあります)
内村鑑三(近代日本の思想家)は『代表的日本人』という著作の中で五人の人物を紹介しているのですが、その一人が上杉鷹山なんです。
なお『代表的日本人』には、日蓮大聖人が、西郷隆盛、上杉鷹山、二
宮尊徳、中江藤樹とともに挙げられています。
このように、アメリカ国内のリーダーが上杉鷹山の功労を知りえたのは、内村鑑三氏のおかげだったんですね。
| アメリカ大統領が尊敬する理由